タスキギー人体実験について 【弁護士 城﨑 雅彦】

1 2017年10月、医療法人の依頼により、「人を対象とする医学系研究に関する倫理審査委員会」の委員に就任し、本年5月までに申請された4つの案件について審査を行いました。

 半世紀ほど前に学んだ高校時代の「倫理社会」はいつも赤点スレスレでしたし、物事を深く掘り下げて考察し、是か非かを論じることはもともと苦手です。「倫理」という2文字から連想されるものには理由もなく反発しながら生きてきたように思います。

 そのような私がこの依頼を引き受けた理由は、医師等自然科学の有識者や一般社会人の方々と、医学的研究という共通のテーマについて論議する機会が得られることに大きな魅力を感じたからです。

 

2 その中で学んだことですが、「医学系研究に関する倫理審査」が求められるようになった歴史的な経過の概要は以下のとおりです。

 第2次世界大戦中、ナチス・ドイツにより、強制収容所で様々な人体実験が行われました。

 ナチス・ドイツの戦争責任を戦勝国が追及した法廷が「ニュルンベルク裁判」ですが、ここで裁かれなかったナチスの医師等を裁いた法廷が「ニュルンベルク継続裁判」と呼ばれるものです。アメリカ軍がニュルンベルク裁判の後に設置し、「医師裁判」「法曹裁判」「捕虜裁判」等、12の裁判が行われました。

 このうち、「医師裁判」は、ナチス体制下で重い地位にあった医師や医療関係者、ナチス・ドイツの人体実験等に関与した者たちを裁いたもので、23名が被告人とされ、うち、7名が絞首刑となりました。

 この裁判の判決のなかで「許可できる医学実験」と題された部分が「ニュルンベルク綱領」とされ、第1項目の「被験者の自発的な同意が絶対に必要である。」から第10項目の「実験の進行中、責任ある立場の科学者は、彼に求められた誠実さ、優れた技能、注意深い判断力を行使する中で、実験の継続が、傷害や障害、あるいは死を被験者にもたらしそうだと考えるに足る理由が生じた場合、いつでも実験を中止する心構えでいなければならない。」まで、研究目的の医療行為を行うにあたって厳守すべき10項目の基本原則です。

 その後、これを発展させ、1964年6月、「人間を対象とする医学研究の倫理的原則」として、世界医師会(WMA)は「ヘルシンキ宣言」を採択し、その後の修正を行いながら現在に至っています。

 この「ヘルシンキ宣言」は、医学研究に対する倫理審査を行うにあたって、常に念頭に置いて拠り所とすべきバイブル的存在と言えるものです。

 

3 今回ご報告するショッキングな人体実験は1932年から40年間にわたり、600人の黒人を対象にして米国公衆衛生局が実施していたもので、その地名から「タスキギー梅毒人体実験」と呼ばれているものです。

 以下の記述は、京都大学名誉教授で日本生命倫理学会初代会長であった星野一正教授の論稿からの引用です。(時の法令1570号「タスキギー梅毒人体実験と黒人被害者への大統領の謝罪」)

 「米国公衆衛生局はアラバマ州タスキギー郡やその周辺に住む黒人について治療をせずに放置した場合の梅毒の影響を調べる実験を40年にわたり行っていた。その対象は、黒人男性で、399名の梅毒罹患者と201名の非罹患者であったが、実験が開始された段階で梅毒罹患者全員は末期であった。なぜなら梅毒の末期に起こる種々の重篤な合併症についてより多く研究することが目的であったからである。」

 「この実験には、一切の計画書が存在せず、実験手順は、進行につれてできていったらしいことが分かった。」

 「梅毒は潜伏期の第1期から第3期まで、全身の骨が侵されたり、心臓循環器や脳神経系が侵されて進行性の麻痺、難聴、失明などを起こし、終末期を終えて死に至るが、1969年の時点で、約100名にも及ぶ被験者が梅毒によって死亡していた。」

 「治療しなかった場合に起こる梅毒の症状の経過を研究するために、米国南部の無教育で貧乏な黒人を観察対象(動物実験のモルモット代わり)として実施された。

 被験者とされた黒人たちにはまったく梅毒実験のことは伝えられてなく、実験材料にされることも知らされていなかったので、被験者になることへの同意もなかった。」

 「医師たちが実際に黒人たちをどのように説得したのかを探ることは難しかったが、実は、政府が実施する検査や医療を受ける登録をした者は、無料で身体検査をしてもらえ、自宅から診療所への往復の交通費は無料で、身体検査日には温かい食事が出され、簡単な病気の場合には無料で診療され、死亡時に部検をさせた場合には年金がプラスされて支給されるという魅力的な交換条件がつけられた。」

 「タスキギー梅毒実験における被験者は、すべて教育程度が低く、経済的にも貧しい下層階級の少数民族の黒人であった。当然、人種差別の中であえいでいた。そのような環境において、政府が黒人のために、医療を無料で提供するばかりか、幾つかの恩典をつけて《政府の医療計画が梅毒人体実験そのものであることを内緒で》参加登録を奨励したので、人種差別で苦しめられ続けてきた黒人たちは喜んで登録したのだったが、それは、さらに酷い黒人差別の政府の計画だった。彼らは40年の長きにわたって、政府に裏切り続けられたのであった。治療が受けられると思っていた黒人被験者たちは、梅毒に対する治療は全くされず、たとえ薬を与えられた場合でも、それはプラシーボ(治療目的の疾患には効果的な薬効のない物質)を与えられたらしいのである。」

 「米国公衆衛生局は、この人体実験のために、リバースという黒人の看護婦を配置した。米国公衆衛生局から配置された医師たちは交代が多く顔や名前がよく変わり、仕事に継続性がなかったので、タスキギーの住民であったリバースが1932年以来のすべての被験者と医師たちの間の連絡を取り、教育程度が低い南部黒人社会の方言や慣習に基づく住民感情などを知らない医師たちとの間の溝を埋め、意思の疎通をはかったりしていた。」

 「リバースが被験者を死に至らしめるという恐ろしい『タスキギー梅毒実験』のために政府側の一員として働いていることを住民たちは全く知らなかった。」

 「リバースは、診察を受けに行く被験者たちを、政府の紋章のついたピカピカのステーションワゴンに乗せ、家族や近所の人々に手を振らせて診療所まで連れて行った。これは『政府と診療契約を結んだ住民の特権』としてうらやましがられたようである。」

 

4 「この『タスキギー梅毒実験』は、1972年7月に新聞報道によりその実態が明らかにされたが、これに対する米国公衆衛生局のスポークスマンは、実験が秘密裏に行われていたことを否定した。」

 「タスキギー梅毒実験の弁護者たちは、この実験が開始された当時、梅毒に対する治療法によって果たして梅毒患者が救われたかどうかは疑わしかったと主張した。当時の医学のレベルから治療の有無の功罪を比較した時に、梅毒患者には治療しないほうが害が少ないと判断したのであって、『タスキギー梅毒実験』が道徳的な配慮もなく、企画されたとは言えないと主張した。」

 「しかし、1945年ころにペニシリンが臨床に使えるようになり、梅毒の治療に非常に効果があることが分かってからも、ペニシリンを含む一切の治療を実施しなかったことに対する弁明に窮した。政府のある医師は『本実験における最も批判されるべきことは倫理問題である』と言い、他のスポークスマンは『1946年になぜタスキギー梅毒実験を中止しない決定をしたのか、その理由がわからない』と言明した。」

 「ちなみに、1946年にはニュルンベルク裁判があり、翌1947年には、ヒトを対象とした医学的実験に対する『ニュルンベルク倫理綱領』が採択されている。

 尚、1972年には、インフォームド・コンセントも確立しており、米国のある病院のラプキン院長が、来院する患者や家族に対し、『患者としてのあなたの権利』という文書を配り始めた画期的な年でもあった。」

 

5 「1997年5月16日、クリントン大統領は、米国政府がかつて『タスキギー人体実験』として行った非倫理的な行為を反省して、生存している黒人老人とその家族にはもちろん、米国国民に対しても『あの研究活動は非人間的で残酷極まりない間違った行動で、学問的根拠もなかった』と正式に謝罪し、タスキギー大学に新たな研究センターを開設するために20万ドルを投資し、また、少数民族の学生のための新たな奨学金制度を設け、より多くの黒人に医学的研究を生涯の職業として従事してもらえるように努力するとの声明を出した。」

 

6 歴史的な一つの出来事は、最大の教師だと思います。倫理審査委員を引き受け、文部科学省と厚生労働省が作成した「人を対象とする医学的研究に関する倫理指針」等も勉強しましたが、ほとんど、頭に入りませんでした。

 この人体実験に関与した医師たちは2~3年で交代したということから推定すると数十人にも及ぶと思いますが、40年間、誰一人として、その非倫理性を訴えることはなかったようです。

 事実が明らかになってからも、「梅毒には有効な治療行為はなく、治療しないことが有効であった。」等と主張した弁護者たちは許せませんが、もし、私が公衆衛生局からタスキギーに配置された医師であったとしたら、たぶん、リバースに教えられるままに、被験者たちに事実を知らせず、任期を終えて、タスキギーを去っていったと思います。

 専門家としての責任を感じながらも自分の弱さを自覚し、医学的研究に対する倫理審査を行っていきたいと考えています。

以上