教育「スタンダード」の違和感 【弁護士 伊藤 真樹子】

 最近、「学力スタンダード」、「授業スタンダード」、「学びのスタンダード」など、教育の様々な現場で、「スタンダード」なるものが導入されていることを耳にします。

 

 これは、教育委員会などが、教育において「求められるべき」標準的な子ども像や教育の在り方を一定の指針として策定し、学校や教師、各家庭に配布しているものです。その趣旨は、全ての子どもたちに画一的な教育を行き届かせることにあるそうです。その内容は、授業内容や方法の指針などにとどまらず、家庭生活における子どもの「在り方」(日々の生活習慣など)をも定めているものが多くあります。

 

 この教育「スタンダード」、安倍政権の教育改革に連動して急速に拡がっているようですが、私は個人的に、違和感を抱いています。

 

 なぜなら、そもそも、教育を受ける子どもたちは、決して画一的な存在ではなく、一人ひとりが個性を有する存在であり、その個性を捨象して「スタンダード」すなわち標準なるものを押し付けることが、果たして子どもたちの人格的成長にとって好影響なのかどうか、疑問を感じるのです。

 

 例えば、私の息子(2歳)は、ものすごく内気な性格で、子どもの沢山いる遊び場に行っても、隅の方で一人遊びをするのが精いっぱいな子どもです。そんな息子の姿を見て、私の母は、「もっと積極的な子にならないとダメよ!」と言ってやきもきしていますが、私と夫は、「まあ、これもこの子の性格だから、この子なりに育ってくれればいいかなあ。」などと思ってのんびり構えています。でも、私の母の言う「積極的な子」になってくれるなら、それはそれで良いと思います。つまり、私の母の思いと、私と夫の思いと、別にどちらも間違っているとは思わないのです。

 

 しかし、ここにもし、「スタンダード」を求めることになったら、どうなるのでしょうか。

 少なくとも、私は、私の息子に対し、国や行政機関の決めた「スタンダード」を一方的に押し付けたいとは思いません。

 そもそも、子どもがどのように育って欲しいかは、それぞれの人の価値観に大きく左右されるものです。そして、教育にあたっては、子どもたちの個性に応じ、学校や家庭において様々な工夫や創意をもって取り組むことが理想ではないでしょうか。子どもにとっても、多感な時期に、一方的に「これが標準!普通!」と押し付けられることは、決して良い影響を与えるとは思えません。

 

 私自身、新米母として、子どもを育てるということ、教育するということは本当に難しい問題だと日々痛感しますし、何が正解かはわかりません。ただ、私の息子が学校に通うころ、たくさんの選択肢のなかで本人が考え、選び、伸び伸びと育つことが出来る環境であって欲しいと願っています。